喜多村緑郎日記
喜多村緑郎とは
新派の名優。明治4年(1871)年に生まれ、昭和36年に没した。明治29(1896)年に、秋月桂太郎、高田実、小織桂一郎らと、大阪道頓堀角座で成美団を結成。以後十年間、大阪を拠点に活躍した。
伊井蓉峰、河合武雄とともに新派を牽引し、新派の女形の芸を完成した人物。当たり役に『婦系図』のお蔦、『不如帰』の浪子などがある。花柳章太郎、初代水谷八重子の師匠でもあり、また泉鏡花や谷崎潤一郎など、作家たちとの交流も深い。
喜多村緑郎日記とは
喜多村緑郎が残した日記。大正12年から昭和26年まで、ほぼ毎年のものが確認されている。一部が翻刻され、演劇出版社より昭和37年に刊行されている。役者の生活を知ることができる資料であることはもちろんのこと、興行に関する記録は貴重で、演劇資料としての価値も高い。また、食にうるさかった喜多村は、数々の名店を訪れており、その記録はグルメマップさながらである。たとえば、居酒屋程度の小さな店から出発し、当時は名もなかった「吉兆」にも、喜多村は開店間もなく足を運びコメントを記している。
ここでは、喜多村緑郎ともゆかりの深い“食いだおれと芝居の町”大阪にスポットをあて、喜多村緑郎日記(昭和6年と12年)のうち、大阪の記述を抜粋しながら、関連する事項を地図上に表示した。喜多村の一日の足取りが再現されている。
日記
◆昭和六年◆
午前九時燕号にて大阪へ立つ・・・・・・宗右衛門大野屋の別館へ投ず。
*「大野屋旅館」は現在、心斎橋にあり、御堂筋西側、ホテル日航の裏西。
十一時頃から藤原医院で、バクノンを注射してくる。
国枝の処へいつて髭を剃つて、アラスカで昼をくつて一度稽古場へいつて出てきてから再び戻るまた一番目の切れない処だつた。
角座にて道具調べをする。・・・・・・
昼めしをアラスカへゆく。途次三越、山中、等へよる。・・・・・・
柴亀へよつて挨拶をしてくる。・・・・・・
それまでに、千日へいつて万才を二三軒見てあるく。村上君が楽屋へきたので、井上のさんのやつてゐる「ボンチ」へ初めてゆく。東京によく似てゐる。
*「角座」は現在映画館となり、「中座」も飲食店の入ったビルとなった。「浪花座」は「道頓堀極楽商店街」と名前を変え、3フロアー約900坪に大正・昭和初期の街並みを再現した架空の商店街ができあがった。6階には劇場「ゑびす座」があり、「流行のお笑い」ではない「極上の「笑い」、極上の「エンターテイメント」」を毎日発信している。
関連:道頓堀極楽商店街
*「山中」は大阪で指折りの道具屋。北浜「三越」も現在は閉店してしまった。
*「柴亀」は芝居茶屋で、大正期の道頓堀のイラスト地図では、「大儀」があったところにあたる。
*「ボンチ」は役者の井上正夫のお姉さんがやっていたトンカツ屋で、松竹座の真向かいにあった。球状のトンカツが名物。
雨風激しく晴曇空を覆ふ。早く起きたので、国枝へいつてアラスカへゆくべく、雨支度で日本橋までゆく。電車に乗つて出かけた。
十一時に国枝の方がすんだのでアラスカへいつて早くから調理をさせる。
帰途藤原医院へゆく。バグノンがさしたことは注したが、少しくもれて右の手の甲が大分腫れた。
昼果てに妻と伴れて松竹座へ行く。「不死鳥」といふのを見る。人情劇だが、それ程にもないものだ。「ランゴ」を少しみて時間なので楽屋(角座)へ戻る。
*大阪滞在中の喜多村は、「アラスカ」で食事をするのを何よりも楽しみにしていた。アラスカが東京へ出店した後も、大阪と東京の味の差をなげき、料理長である飯田進三郎が東京へ来たときは、喜びのことばを日記にしたためている。
また喜多村が通っていた「国枝理髪店」は、現在も名前を変えて、当時の建物のまま営業を続けている。
昼前渡辺氏と共に神戸に出て、根津氏などともそこで別れて大阪へまた出た。アラスカで一人飯をくふ。国枝で髭をそる。
山中、三越。久しぶりで高嶋屋、等、百貨店をあるく。
日本橋の外国骨董店へもいつて話込む。
千日の活動を見る。
日没頃、約束の如く吉本に会ふことゝなる。
新町の霧嶋へゆく。吉本はどうしても新町が一番いゝらしいのだ。
*新町公園には、「新派の祖 角藤定憲」と「新派発祥の地」の碑があり、その近くにはかつての「新町座」跡がある。
朝日講堂へゆくと、大道が廊下に待つて居た。客の方でも、これでは却つてつまらないことゝおもふ。
大道と、かへりに、一緒に、稔、渡辺、をつれて戻て、心斎筋の富士屋で食事をして大道に別れてかへる。
吉本、また電話をかけてくる。北の喜久家へいつて一杯のむ。・・・・・
吉本がくる。桑港に料理旅館とかを開いてゐるうちの女将とかいふ女を伴れて来た。美人座カフエーへいつて、北のコブラへ廻つてかへる。
*「美人座カフェー」は、現在のキリンプラザのところにあった。
◆昭和十二年◆
妻へ葉書などをかいた。――午前十一時過ぎに、車を呼んで法善寺の不動尊へ詣る。
脇田氏へ行く。――昨日の注射の処が正に痛いのでまたその痛を止めるやうにやる。・・・・・・
アラスカで、食事をする。飯田が名古屋に博覧会のあるせいでいつて居て留守なのだが、なかなかいゝ味にくはす。
歌舞伎座へよつて、道具調べをして居るのを見て、柴亀へゆく。皆留守だつた。
五時半前に、渡辺と稔、をつれて角座へ入る。・・・・・・
角座は、桟敷の末が、少し甘かつたが椅子場は爪も立たない。狂言は、何んだか、この一座らしいものだ。・・・・・・
帰途雨の中を芝亀で傘をかりて、ボンチへゆく。
*「歌舞伎座」は、大正3年に建設された大娯楽センター「楽天地」跡地(のちに千日デパート、プランタン難波となって、現在はビックカメラなんば店)にあった。
紅梅、赫子、九寿子、と、稔とで十合の六階食堂へいつて食事をして楽屋へゆく。
役を了へてのち、九寿子、紅梅、と稔、で「明月」でテーボーンステーキを食つて宿へ戻る。
役を了へて、紅梅、渡辺、稔、をつれて「ヅボラ」へいつて食事をして紅梅と、稔とで宿へかへる。赫子がかへつてきたり。九寿子が紅梅の迎ひにきたりした。
十四日目 満員
角藤氏の建碑の敷地を天王寺の一隅に決めて柱を建て法要をいとなむ。これで一つ義務を終へた気がする。
赫子をつれて玉出を出て、法善寺の不動尊へ参詣をして、大野屋へ紅梅を迎ひにいつてやる。
稔と、女達二人とで、天王寺の本坊へゆく。・・・・・・
午后八時四十分。役を終へてアラスカへゆく。――稔に迎へられて合原君が着いて、脇田氏も一緒にそこに居た。――稔をかへして三人で食事をしてのち、玉出の宿へきて三人で熟談をとげる。
十五日目 満員
遊食会を鶴屋にてひらく会費五円。午前十時より。――
役を終へてから新町の「ふく屋」へゆく。吉本と、その友人といふ、「綿花」の連中に大矢が加つて居る。
「きつちよう」とかいふ料理屋のものが一寸評判とあつて、それを馳走をするといふのが主なのだつた。「星の岡(ママ)」といつた料理のしかただが、その家といふのはとても小いさいうちだといつて「ふくや」へとりよせてくはせてくれる。
役を終へて「播半」へ村田かく子を伴れてゆく。・・・・・・
*「播半」は現在の長堀通りに面した料亭「播半」(本店)と、そこから心斎橋筋をはさんで西側、御堂筋近くにあった洋館「播半」。そして宗右衛門町の鳥料理「播半」の3つがあった。
赫子をつれて、紅梅を誘つて脇田氏へゆく。
あとから九寿子が紅梅の電話によつてやつてくる。注射をすませて。女達三人と稔と五人で、「大道」から昨夜すゝめられたので、瓦斯ビルの地階のグリルへいつてみる。
*「脇田氏」は喜多村が通っていた耳鼻咽喉科の医師。
役を終へてから紅梅と稔をつれてボンチへゆくと休みなので、明月へゆくとこゝも休みで、スエヒロへゆく。
遅く麻雀を誘はれて居るので、時間つぶしに役を終へて天王寺公園をぶらついてみた。朧の空の下に春を感じる。――心斎橋へ戻つてぶらつくと九寿子に会ふ。紅梅をおどろかさうと、百姓亭へいつて電話をかける。紅梅がくる。食事の後二人を大のやへ送つてやる。
午前八時頃起きる。――朝の珈琲など喫してのち久しぶりで電車で難波駅へゆく。九時半。高嶋屋デパートをあるき廻つて十時に脇田医院へゆく。アラスカへ一人でいつて昼をしためてアストロで紅梅とくす子がくるのをまつた。――紅梅が弁天座の今日かはる映画をみせろといふので約束をしたのだつた。十二時といふのにおくれてくる。
弁天座をみたのち此方は昼をすませて居るので、十合の野田屋で二人に食事をさせたのちは果物などくふ。